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酒匂川探検:歴史的な治水技術

酒匂川の歴史は、暴れ川との戦いの歴史。富士山の宝永噴火や関東大震災による甚大な被害も。

酒匂川の土手が切れている!?

酒匂川の治水や利水の歴史に興味がわいて来たので、GoogleMapsやStreetViewを使って事前調査してみました。

更に国土地理院の古い航空写真を現代の地図に重ねて見ると、結構いろんな発見があります。

そうこうしているうちに、酒匂川の右岸の土手に、3カ所繋がってない場所があることに気づきました。これってもしかして・・・

■霞堤!

ネットで調べたところ、江戸時代に作られた霞堤が、今でも3カ所だけ残っていることが分かりました。

霞堤とは、堤防の一部を切って、その部分を2重堤防にしておき、増水時に二重堤防の間に水を逃がして水量を下げ、他の重要な堤防を越水や決壊から守る仕組みで、発明者とされる武田信玄にちなみ「信玄堤」とも言われるものです。

今で言うと遊水池の役目をする仕組みです。

霞堤の中は洪水時に水が貯まる場所なので、普段は田んぼなどになっており、洪水が引いた後には、上流から運ばれて来た肥沃な土が田んぼを潤す利点もあるそうです。一石二鳥の優れものですね。

■現地調査

コロナ対策で密を避け、更に成人病予防の運動のため、久しぶりに自転車を整備し、ポタリングしながら調査して来ました。

(1)中曽根の霞堤


1-a地点:堤防の途切れた部分を撮影


1-b地点:霞堤の中を撮影

  • 所在地 :小田原市中曽根、小田原テニスガーデン東側、富士道橋右岸
  • アクセス :県道717 小田原アリーナ入口交差点

(2)曽比の霞堤


2-a地点:堤防の途切れた部分を撮影


2-b地点:霞堤の中を撮影


2-c地点:霞堤の中を撮影

  • 所在地 :小田原市曽比、城北工業高校北側、報徳橋から足柄紫水大橋の中間の右岸
  • アクセス :県道714 報徳橋右岸から

(3)九十間土手


3-a地点:堤防の途切れた部分を撮影


3-b地点:霞堤の中を撮影


内側の堤防の先端部分(橋の上から撮影)

  • 所在地 :開成町吉田島、開成水辺スポーツ公園下流,足柄大橋右岸
  • アクセス :足柄大橋西交差点から

■まとめ

歴史的遺構として保存しているのか、それとも現代でも治水効果があるのか気になります。さすがに霞堤内には住宅は建っていませんでしたが、ギリギリの場所には小田原アリーナとか工場とかはあります。

過去に、大雨で酒匂川の水位がかなり上り、河川敷の運動場が水没したことが何度かありましたので、その際に霞堤内に水が入ったのか調べてみたところ、Youtubeで決定的瞬間を発見しました。

Youtube:2010年9月8日 PM5:40 酒匂川,大洪水

1:53位から霞堤の中が浸水している様子が映ってます。

濁流状態の本流に対し、霞堤内には制御され静かに水が入ってる様子が分かります。

さすが、武田信玄!現代でもその技術は確かに生きていました。

霞堤以外でも、当時の様子を知る痕跡が多数残ってましたので、簡単にご紹介します。

(1)二宮尊徳が表彰された地に建つ記念碑(右岸、酒匂橋付近の上手)

(2)至る所に残る松の木

洪水発生時の水防用の木材資材として植えられたものです。

(3)至る所に積まれた玉石

堤防の修繕用資材として、至る所に玉石が積まれています。

(4)至る所に建つ水神様をまつる石碑

技術と民間信仰が見事にバランスしてます。

(5)榎下公園のモニュメント

この辺りは、酒匂川と川音川が合流する場所で、昭和の時代に入っても水害の歴史が続きます。(昭和13年6月の集中豪雨被害)

そのような歴史もあってか、色々な歴史的な治水技術に関するモニュメントが設置してあります。


木工沈床


聖牛


釜段工

やはりこの辺にも甲斐の国の技術が関わっているみたいです。詳しくは以下を読んでみてください。

甲斐の治水・利水技術と環境の変化

プロジェクトZ

■はじめに

酒匂川の治水事業の歴史を辿ると、徳川吉宗と、その側近であった大岡越前による文命堤プロジェクトが最も有名なものでしょう。

現代なら松平健と加藤剛のダブル主演で、プロジェクトXが制作出来たと思います。

 +  = 

■歴史を確認してみた

年代 主な登場人物と出来事
(以前) 大口付近で足柄平野に出た酒匂川は、氾濫の度に流路を変えており、人々の暮らしに大きな影響を与えていた
1609
慶長14
プロジェクトZ
小田原藩主の大久保忠世(ただよ)・忠隣(ただちか)親子が2代にわたり完成
「2岩3堤の構造」により流れをZ型に変え、自然の岩盤でできた崖に川の水を当てることで、洪水時の流速を抑制
最後の大口堤防で、平野部に出た川の流れを現在の状態に固定
1707
宝永4
富士山 宝永の噴火により、大量の火山灰が酒匂川に流入し、川床が上昇
この影響により、1709並びに1711に大規模な氾濫が発生
1725
享保10
プロジェクトX
暴れん坊将軍 吉宗から、大岡越前に対して復旧工事を指示
大岡越前は、多摩川などの治水工事に実績がある、川崎宿在住の田中丘隅(きゅうぐ)に随意契約で発注
1727
享保12
岩流瀬土手及び大口土手の復旧工事を完成し、文命堤と名付ける
1734
享保19
再度決壊、死者39名家屋53軒が流される(出典:南足柄の文化とジオサイト)
田中丘隅の娘婿 蓑笠之助がリベンジに挑むが・・・
(明治時代) 本格復旧が完成

何と、暴れん坊将軍と大岡越前よるプロジェクトXの100年以上前に、小田原藩主の大久保家によるプロジェクトZが存在したとは・・・

■現地調査をしてみた

岩流瀬(がらせ)の名称の通り、巨大な石がゴロゴロ転がっており、またコンクリート製の堰堤が軽々と破壊されている様子を見ると、この流れを自然の岩盤に受け止めさせるようなZ型の流れを考えた人はすごいですね。

水害の恐れが無いとは言え、釜淵の上にある住宅はちょっと怖そうです。

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